2023.03.17

予防医学研究者・石川善樹が描く、ウェルビーイングの未来とは?(後編)

ウェルビーイングトーク しあわせの、これから。Vol.8
8月29日(月)に東京・下北沢の本屋B&Bで開催された、予防医学者でウェルビーイングを長年研究する石川善樹氏に、「ウェルビーイングの未来」を聞くトークイベント。
前半では、Hakuhodo DY Matrixのマーケティングプランニングディレクター・田中卓氏との対話を通し、ウェルビーイングとはどうやら「他者との間に良い関係性を結ぶこと」であることがわかってきた。ポストSDGsとも目されるウェルビーイングはしかし、いまだ社会への定着過程である。それぞれの解釈を議論する中で、最終的な概念は立ち現れてくるのだと石川氏は言う。

後半は、そんな試行錯誤を実践すべく、石川氏の意向で会場からの質問が随時受け付けられ、田中卓氏に加えて参加者の質問にも答えながら、議論が展開していった。

石川善樹(予防医学研究者、医学博士) 東京大学医学部健康科学科卒業、ハーバード大学公衆衛生大学院修了後、自治医科大学で博士(医学)取得。公益財団法人Wellbeing for Planet Earth代表理事。「人がよく生きる(Good Life)とは何か」をテーマとして、企業や大学と学際的研究を行う。専門分野は、予防医学、行動科学、計算創造学、概念進化論など。近著は、『むかしむかしあるところにウェルビーイングがありました』(KADOKAWA)『フルライフ』(NewsPicks Publishing)『考え続ける力』(筑摩書房)など。

田中卓(Hakuhodo DY Matrix マーケティング プラニング ディレクター) 幅広い業種のマーケティング&ブランディング業務に従事。博報堂九州支社に赴任中の2016年に「Qラボ」を立ち上げ、九州を活性化するアクションを実施。2021年から、Hakuhodo DY Matrixに在籍。100年生活の「Well-being≒満たされた暮らし」のモデルをつくることを目指し、業務に取り組む。共著に『マーケティングリサーチ』(すばる舎)がある。

日本的なウェルビーイングって、どんなもの?

参加者A ウェルビーイングのウェル(well)と、ファン(fun=楽しい)はどう違うのでしょうか。楽しいことをすることで幸せになるというのが、幸せの定義だと思っていたのですが。

石川 ウェルビーイングのシンボルが笑顔になったのは、19世紀のことです。それまではウェルビーイングのシンボルは「しかめ面」で、苦労や修行に耐えることがよい人生であると考えられていました。しかし、なぜかいつも笑っているアメリカ人のスマイルフェイスをヨーロッパの人が目撃するにつれ、いつの間にか「笑顔」がウェルビーイングの象徴になっていったのです。

一方、日本で尊重される顔といえば、能面、無表情です。能面における無表情とは、喜怒哀楽のすべてが詰まった無限の表情がある、という意味。感情に多様性があるのがウェルビーイングだというのが、最近の考え方です。

田中 今のお話に関連して伺いたいのが、日本と海外ではウェルビーイングの特徴が違うのか、日本的なウェルビーイングとはどんなものなのかということです。

石川 それに答えるにはまず、日本的とは何かを問う必要があります。

この国の住人が「我は日本人なり!」と自覚し始めたのは、実は日清・日露戦争以降です。それまでは「我は土佐藩なり!」とか「我は下北沢の者なり!」というのが主流で、共同体の一員としての意識が強かった。でも、それでは国のために外国と戦うだけの結束力は得られない。だから西洋列強はまず共同体を解体し、「個人」を作っておき、敵を意識させて「お前たちはフランス人だ!」と言ったわけです。これが近代化です。

日本も明治以降、同じことをやりました。廃藩置県を行って共同体を解体し、日清・日露という強大な敵を作ることで「我ら日本人なり!」と意識させた。つまり、「日本的」というのはごく最近、近代の発想なのです。

とはいえ、日本的なるものの原型はどこにあるのか。強いていえば、それは聖徳太子が作った「十七条憲法」だと思います。隋(中国)の脅威が迫る中、聖徳太子は日本とは何かを考え、「十七条憲法」を制定した。

憲法というのは第一条に最も重要なことが書かれているものですが、十七条憲法の第一条にあるのが「和を以って貴しと為す」です。第二条が「仏(三宝)を敬え」、第三条が「天皇の言うことを聞きましょう」。つまり、天皇より宗教より和が大事としているのです。最後の十七条でもう一度繰り返しています、「独断で決めるな、みんなで話し合え」と。

日本的なものの原型は憲法十七条にあり、その最たるものは「和」だと言えるでしょう。

田中 ウェルビーイングが自分だけではなく、人と関係性を結ぶことであるとの解釈にも通じますね。

10年後、ウェルビーイングはどうなっている?

田中 将来、ウェルビーイングな社会が実現したらどんなことが起きるのかを想像するとワクワクしますが、10年後の日本社会に、どの程度浸透していると思われますか。

石川 どれだけ浸透させたいのかによると思います。ぼくとしてはすっかり浸透して、ウェルビーイングの次を考える議論が始まっているといいなと。中高年が「ウェルビーイングが……」と口にし始め、若い人たちは「もうダサい、次を探そうぜ」となっているくらい浸透していることを願っていますね。

田中 あまりにも当たり前になると、口にされなくなる。スタンダードになるとはそういうことですよね。ではそうなったとき、何が変わるのでしょう。

石川 新たなウェルビーイングテクノロジーが出てくるのではないでしょうか。私は、世界最古のウェルビーイングテクノロジーは焚き火だと思っています。焚き火ほど人とよい「間」を作れる装置はないし、焚き火を超えるものを人類はまだ作っていない。2030年には焚き火を超えるテクノロジーが誕生しているといいのですが。

田中 焚き火は今も昔もみんな大好きですからね。現在のキャンプブームにも通じます。

石川 10年後の日本では、50代以上の人口が過半数を超えます。彼ら/彼女らが考えることと言えば、もうウェルビーイングしかありません。人口の大半がウェルドゥーイングよりウェルビーイングを強く意識して人生を過ごすようになるでしょう。

外部資本が中心の大資本主義から、共同体が中心の小資本主義へ

参加者B そうなると、これまでの経済成長を求める資本主義も、何らかの形で変わる必要が出てきそうです。

石川 その通りです。資本主義を語るときに重要なのは、「その資本がどこから来るか」を考えることです。あらゆる地域に外部の大資本がやってきて、似たような景色を広げていく、というのがこれまでの資本主義のやり方でした。高い成長率が期待される外部の大資本にとって、成長は命題。求めざるを得ません。

でも、地域内部の小資本主義ならどうでしょう。身の丈資本主義、ほどほど資本主義と言えるような地域の小資本を主体とした経済活動は、ウェルビーイングとの相性もよいと思います。共同体への回帰と身の丈資本主義が、ウェルビーイングな社会のスタンダードになるのではないでしょうか。

資本主義も近代の産物です。近代の3大特徴は、国民国家・市民社会・資本主義です。近代に入ると、国家は国民国家になり、社会は市民社会になり、経済は資本主義になった。

しかしこの3つが今や限界に来ています。ポスト近代、卒近代、脱近代など、近代を何とかしなくてはと議論され、共同体内の小資本主義が成立していた前近代に、解決へのヒントがあるのではないかと言われている。このテーマについてはすばらしい思索をした先達がたくさんいます。かれらに学ぶことは、ウェルビーイングを考える上でも、ポスト近代を考える上でも重要だと思います。

田中 グローバル経済もコロナで揺れ、国民単位を重視する傾向が出てきていますが、さらに生活に密着した地域単位に、経済の中心が移っていくのですね。

ウェルビーイングは、「終わりよければすべてよし道」

参加者C ウェルビーイングの分析では要因が重要とおっしゃいましたが、どのように点数を出すのですか。要因も人それぞれで、非常に測りづらいと思うのですが……。

石川 調査設計自体はシンプルです。まず、「あなたの生活を主観で評価してください。あなたにとって理想の生活を10点、最低の生活を0点とした場合、今の生活は何点ですか」と聞きます。どの民族でも答えられる設問なので、世界中で使われています。

次に、「では5年後、何点になっていると思いますか」と聞きます。これは実際にあった事例ですが、現在は0点だと言っていたベトナムの女性が5年後は10点だと言うのでなぜかと聞くと、「子どもが生まれるの!」と答えた。納得しますよね。

億万長者の人たちへの調査の結果も印象的でした。巨額の資産を持ち、起業家で社長、家族構成も友人関係もライフスタイルもほぼ同じ。それなのに8点の人と2点の人がいた。客観的条件(=ウェルビーイングの体験)がどれほど揃っていても、主観(=ウェルビーイングの評価)にはばらつきが出るのです。それはなぜなのか。

参加者C 確かに、同じように怪我をしても、それを最悪だったとしか思わない人と、怪我をしたからこそ健康のありがたみがわかったと解釈する人がいます。

石川 その通りです。どんな体験をしても、最後にそれをウェルビーイングだと評価できればいい。ウェルビーイングというのは「終わりよしならすべてよし道」なんです(笑)。その道を進める人にはどんな特徴があるのかを調べ続けてきたのが、この半世紀のウェルビーイング研究です。

ウェルビーイングとは関係性を結ぶこと

石川 現時点でのコンセンサスとしては、「複数のコミュニティに異なるアイデンティティで参加している」という特徴があることがわかっています。

ぼくの息子が通う野球教室では、保護者間に暗黙のルールが2つあります。1)年齢を聞かない、2)仕事の話をしない、です。年齢を知った瞬間にヒエラルキーが生まれるし、仕事の話をすると「お客さんでしたか!」と忖度が生まれたりする。それを防ぐために年齢や職業のアイデンティティを消し、違う「息子の保護者」というアイデンティで参加するのです。そのように複数のコミュニティで異なる顔で参画することが、ウェルビーイング評価の高い人の特徴であることが、世代・文化を問わず認められています。

こうしたことを鑑みても、やはりウェルビーイングとは関係性のことなのだと思います。個人主義に浸かっている人は、「ウェルビーイング=私が快適であること」と捉えがちですが、ウェルビーイングの本質は「他者と関係性を結ぶこと」だと考えると、10年後の社会の姿も大きく違ってきます。

参加者D 私は多様なコミュニティに属するのが苦手なのですが、そういう人でも異なるアイデンティティで異なるコミュニティに飛び込み、関係性を結ばなくてはいけないのでしょうか。

石川 関係性を結ぶ相手は、人間である必要はありません。

縄文文化の痕跡を最も残すと言われる三内丸山遺跡には、日本における社会の原型が現れているのですが、その真ん中に置かれていたのが祭りと墓でした。お祭りは神様が降おりになる行為、墓はご先祖様がいらっしゃる住居ですよね。つまり縄文社会は、今生きている人間と、神様(自然)、そしてご先祖様という三位一体の構造でできていた。おそらく、四季を通して暮らす中で自然と生まれた構造なのでしょう。

共同体の崩壊した都会にいると、関係性を築くには無理やり外に出ていかなくてはなりませんし、新しいコミュニティに飛び込むのはどうしても不自然な行為になります。それが大変だと感じるのなら、すでにつながっている人、虫でも自然でも物体でもいい、それらとの関係をきちんと結び直すことで、自然と役割が生まれてくると思います。

ぼくの場合、ウェルビーイングは「高める」でも「求める」でもなく、「深める」のがしっくりきます。出会った人との関係性を深めるのが、ウェルビーイングに通じる道だと感じる。自分なら「**める」だとしっくりくるか、を考えてみるといいかもしれません。

「推し活」がウェルビーイングへの近道?

田中 最後にもう一つお聞きしたいことが。アイドルなど自分の好きな「推し」を決め、応援する行為を「推し活」といいますが、先生は「推し活」がウェルビーイングになる近道だとおっしゃっていますよね。それはなぜでしょうか。

石川 「推し活」が、関係を結ぶことだからです。「推し活」をする人というのは、理屈抜きで「推し」とつながっちゃった人です。関係性を結んだことで、自分の役割が発見されてしまった、だからその役割を果たしている。

何かをする場合には、なぜそれをやるのか、どうやってやるのかが気になるものですが、「推し活」をしている人は、なぜこのアイドルを応援するのかを自問しないし、応援するには何をしたらいいかを他人に聞いたりもしません。これが仕事だと、なぜ/どう/誰とその業務をやるのか、不満ポイントはいくらでも出てくる。それは関係性を結んでいないからです。関係性が結ばれれば、そういったことは気にならなくなり、ただそこに立ち現れた役割を自然と果たすようになるのです。

日本人は昔から、自分の行いを通じて他者に貢献するのが好きですしね。

田中 「推し活」は日本的、ということですか。

石川 そうだと思います。古くは仏教においてもその傾向が見られます。中国・インドでは自分の御利益のための宗教だった仏教が、日本に入ってくるときには「自分のため」がスッと抜け、「他人のため」になった。利己は必ず利他に変換されて日本に入ってくるのです。

その理由は、先ほどお話しした縄文時代の暮らしにあります。私たちは個人で生きているのではない、つながりの中で生かされている。役割はつながりの中からこそ現れる、という感覚が、私たち日本人の奥深くまで根を下ろしているのです。その意味で「推し活」は、無条件のつながりを感じられるよいチャンスだと言えます。

農業など、自然と関係を結びながら暮らしていると、自分の役割は自ずと出てきますからね。やりたいことなんて探さずとも、することは勝手に出てくる。それが、日本人が古来より体得してきたウェルビーイングなのではないでしょうか。

写真:平岩享

構成:高松夕佳

プロフィール
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Well-being Matrix編集部
人生100年時代の"しあわせのヒント"を発信する編集部。