2023.07.31

僧侶・川上全龍と禅を通して体感する、日本式ウェルビーイング

ウェルビーイングトーク しあわせの、これから。Vol.14
ライフスタイルが多様化する中、個人の主観的問題とされてきた「幸せ」や「ウェルビーイング」を学問的に研究し、社会に還元しようとする動きが加速していますが、その多くが西洋の視点からのものです。私たち日本人には、また違うウェルビーイングがありうるのではないでしょうか。日本人が古来より求めてきた幸せのかたちとは、どのようなものなのでしょう。

Hakuhodo DY Matrixのマーケティングプラニングディレクター・田中卓氏、博報堂の新しい大人文化研究所所長・安並まりや氏が、臨済宗妙心寺派の大本山、京都・妙心寺の塔頭の1つである春光院を訪れ、禅の視点で見るウェルビーイングについて、住職の川上全龍氏に話を聞きました。

川上全龍(妙心寺春光院 住職) アリゾナ州立大学を卒業後、宮城県瑞巌寺で修行を行い、2007年に春光院・副住職に就任。現在、禅や東洋思想や多様な自己の在り方について講演や講義を日本や海外で、MIT、ブラウン大学、イートン校、Microsoft、BNPパリバ、京都大学、Mind & Life Instituteなどで行う。TEDxKyotoやICCなどのイベントでも講演を行う。著書に『世界中のトップエリートの集う禅の教室』(KADOKAWA)。 

海外経験から見えてきたもの

春光院の最大の特徴は、禅や日本文化の体験プログラムを数多く主宰していることです。400年以上の歴史を持つ重要文化財の建物で、静寂につつまれながら己と向き合う坐禅体験には、世界各国から参加希望が後を絶ちません。  

海外のゲストを積極的に受け入れるようになった背景には、川上住職自身の留学経験があります。禅寺・春光院の5代目として京都に生まれた住職は、高校卒業後アメリカに渡り、アリゾナ州立大学で宗教学を学びました。そこでの経験が、現在の自身の禅への向き合い方に大きく影響していると言います。 

川上 「最初はアメリカに永住したいと思っていました。でも、自分が生まれ育った仏教や禅を大学で学問として学んだとき、初めて面白いと感じたんです。そこで帰国して、僧侶として禅を実践しながら学んでみようと思いました」  

日本の仏教研究が各宗派ごとに行われるのに対して、アメリカの大学で受けた宗教学の授業は、多様な宗教を社会的現象として捉えるもの。チベット解放運動が盛んに行われるなど、若者たちの仏教への関心の高さも、川上さんには新鮮だったそうです。 

安並 「私も同時期にアメリカに留学していたのですが、当時から禅は非常にクールなものとして受け入れられていましたね」 

川上 「そうですね。春光院で受け入れるようになった海外からのゲストも、皆さん、本でかなり勉強されていて、関心の高さが伺えました」 

しかしそうしたかれらの姿勢に、住職は次第に違和感を抱き始めます。海外で紹介されている仏教や日本文化の本には、日本の僧侶は生涯独身で、食事は精進料理のみ、1日中瞑想をしている、といった理想像が書かれていることが多く、実態とのギャップを伝える必要性を感じるようになったのです。  

川上 「でもそれは私自身も同じでした。あるときチベット仏教の高僧と話していたら、『私の僧院に僧は約2000人いるが、月に2、3人は街で飲酒が見つかって怒られる。でも2000人中わずか数人で済んでいるのは、仏教のおかげだよ』と言うのに驚いて、私自身がチベット僧に対して、固定したイメージを抱いていたことに気づかされました」 

固定概念を疑うことが、禅の真髄

格式のある寺で育った若き日の川上住職にとって、伝統とは逃げたいものでしかありませんでした。京都ではどこに行っても「春光の坊(ぼん)」と呼ばれますが、身近な和尚さんたちはいわゆる「お坊さん像」とはかけ離れた、ごく普通のおじさんたち。少年期を過ごした80年代は葬式仏教全盛期、仏教の伝統への懐疑も湧いていました。さらに高校時代にはオウム真理教事件が勃発、宗教への世間の風当たりは強くなっていきます。 

川上 「そういう中で育ったので、仏教や宗教への様々な固定概念をどうすれば崩せるのだろうと、どこかでずっと考えていたのだと思います。科学ならそれができると思い、アメリカに留学したところもあった。でもそもそも固定概念を壊すというのは、禅の根底に流れる思想でもあったのです」 

禅の修行をしていると、自らが梯子を一段ずつ上っているような感覚を得ることがある。しかしそうして自分が「何かに到達した」「わかった」と思った瞬間、梯子自体を壊さなくてはならない。それが禅の教えなのだといいます。  

川上 「6年前、著書『世界中のトップエリートが集う禅の教室』を出していい気になっていたとき、物理学者の土岐博先生にも同じことを言われました。『学術論文というのは、発表した瞬間に自分のものではなくなる。どんどん否定していかなくては意味がないのだ』と。まさに禅だと思いましたし、非常に影響を受けました。だからあの本は今では読んでほしくないんです(笑)」 

裾野を広げるより頂を目指したい 

田中 「あっ、そうなんですか! 読んできてしまいました(笑)。では禅の入り口を広げ、多くの人に門戸を開こうというお考えも、その後変わったのでしょうか」 

川上 「変わりましたね。今は逆に敷居を上げようとしています。文化には、裾野を広げようとする人と頂を高くしようとする人の2種類がいます。高い山を作るには、ある程度の裾野の広さは必要ですが、今の日本では広げる人ばかりが増え、頂を極める人が激減しています。その様子を見るにつけ、高い峰を築く人がいなければ文化は低い丘に止まり、残していけないのではないかと感じるようになったのです」 

難しいことをわかりやすく伝える人=専門家と勘違いされる風潮が嵩じると、文化は廃れてしまう。集団の質を支えるためにも、理解者は少なくとも、未知なる高みを目指すべきなのではないか。そんな危機感が川上住職を、門戸を解放するよりも敷居を高くするという方向へと舵を切らせたのでした。 

変化する己を探求し続けること 

現在、春光院の体験会の参加可能人数は平均8から10名と、とても小規模です。人数を絞ることで、真剣に京都で禅を学びたいという意欲と志のある人だけが訪れるようになります。それは同時に教える側をも鍛え、文化を押し上げることにつながっていきます。そして川上住職はそうした参加者に対し、敢えて挑戦的な対応をとるそうです。 

川上 「人は、自分が知っていると思っていることについては、意外と言葉で説明できないものです。そこで参加者の方が知っているはずのことを説明させ、鼻を折るようなことをします。怒る人もいれば、もっと学ぼうとする人もいますから、ふるいにかけているようなものかもしれません」 

安並 「そうして精神的に負荷をかけられると、より冷静に自分を分析できそうです」 

川上 「宗教とは本来、そういうことをするものだと思います。ユダヤ教のラビ(聖職者)が言っていました。ユダヤ教で最も重要なのは、常に自分に疑問を持つことだ、と。神の存在とは人間の叡智を超えた、決して理解の及ばないものですが、それを理解しようとする行為こそが信仰なのです」 

イスラム教や初期のキリスト教でも同様のこの考え方は、禅にも通じます。禅の本質は「己事究明」、刻々と変化する自分(己)に興味を持ち、どこまでも探究していくことだからです。 

川上 「自己と自我は違います。自己とは、どんどん変化していく自分の状態のこと。これが自分なのだと思った瞬間に、それはもう自分ではなくなっている。一方で自我とは、自分はこうだと思い込む固定観念のことです。禅ではよく自我を捨て、無我になりなさいと言いますが、あれは固定された自分という考えを捨て、常に自己、変化していく状態としての自分を探究せよということなのです」  

自分でさえ捉えたと思えば消える、ゆらぎの只中にある存在なのだとしたら、わからないことをわからないまま受け止めつつ、理解しようと努めることにこそ、私たちは喜びを見出すべきなのかもしれません。 

型からも自分からも自由になるとき

ではそのようにゆらぐ自己を探求するには、どうすればいいのでしょうか。春光院の体験プログラムでも取り入れている坐禅や茶道に、そのヒントがあります。 

川上 「日本の『道』とつくものには型があり、型をしっかり覚えるところから始まります。型自体は数年で習得できますが、問題はそこからです。人間は体格も感覚も1人ひとり異なるため、次第に癖がついてきて、忠実にやっているつもりでも型からずれていきます。己を振り返ることでそのズレに気づき、型(本式)に戻そうと努力する。その過程を繰り返す中で、型からも自らの癖からも自由な自分が生まれていくのです」  

即効性を求める参加者は型を習得すると、とかく次のステップを求めようとしますが、次のステップなど存在しないのです。 

川上 「私の研修は、やったからといって即腑に落ちるものでも、明日からの人生が変わるようなものでもありませんよ、といつも伝えています」 

田中 「思い込みや主観から自由になること自体が、禅の求める生き方ということなのですね」 

川上 「それも1つですが、自由になることが目的と言い切るのも、また正しくはありません。禅にしても『道』にしても、これをやればこうなるという目的ありきのものではないからです。あくまでも自己の状態を捉え、自我を手放す手助けになるもの、自己修練の手段です」 

「幸せになりたい」から離れよう 

何事にも目的と効果を求めがちな昨今、バズワード化しつつあるウェルビーイングという言葉にも、「今の自分には満足していないけれど、これさえあれば未来は良くなるのだ」という目的ありきの姿勢を感じると、川上住職は危惧しています。  

川上 「私たちは安定した成長や右肩上がりの未来を信じがちですが、人類の歴史を繙けば、ほとんどの時代において、未来とは、得体の知れない、末法に向かっていく可能性のある怖いものでした。禅や武道というのは、そうした不確かな社会で生き残るために人々が身につけようとした術だったと思います」 

コロナ禍を経て、世界情勢が混迷を極める今、未来に希望を抱くよりも、人生の不確実性をそのまま受け入れ、日々を無事に生き延びたいという願いのほうにシンパシーを感じる人は多いのではないでしょうか。 

川上 「仏教ではすべての根本には苦があると説いています(四諦)。人間の理想と現実の間には決して埋められないギャップがあり、それゆえ苦しみが生まれるけれど、それが生きるということなのだ、と。一方、幸せというのは運の要素が強く、そもそも求めて得られるものではありません」 

ウェルビーイングについても、「これが絶対に善い生き方だ」とか「こうすれば幸せになれる」と定義づけるのをやめることから始めるべきなのかもしれません。 

川上 「善い生き方の『善い』とは何かを常に考えていくのが、我々人間の務めです。釈迦自らが、自分の教えも永久に通用するわけではない、執着することなく、通用しなくなったらその場で捨てよ、と説かれているのです」 

自由意志の呪縛をといてみる

唯一無二の存在である個人の自由意思を尊重すべきだという考え方こそが、実は私たちを苦しめているのではないか。実際には我々は1人で生きているわけではなく、常に周囲からの干渉や影響を受けている。自分の意見だと思っていることさえ、違うかもしれない——そう語った川上住職は、「実際に体験してみるとわかりやすいですよ。ちょっとやってみましょう」と、田中さんと安並さんに促しました。お互いに向き合って座り、片手の人差し指を触れ合います。その状態のまま、まずは1人がリードして腕を動かしてみます。 

川上 「どうですか? 自分が完全にリードしていると思いますか?」 

田中 「自分がやっているのかやられているのか、わからなくなってきました」 

安並 「すごく不思議な感覚です」 

川上 「動きをコントロールしているつもりなのに、次第にコントロールしているのか、されているのか、わからなくなってきますよね。自分の意思だと思っているものも、実際には周りからの影響を受けていることがよくわかると思います」 

このワークは、コントロールを効かせやすい人差し指ではなく、普段あまり使わない薬指を使ってやると自然と相手に委ねることになり、より楽にできるのだと言います。 

川上 「同様に、歳をとるというのも、実はいいことなんです。登山家の栗城史多さんは、『山の事故を最も起こしやすいのは、35歳以下の若手登山家だ』と言っていました。彼自身、35歳で滑落死しています。環境の変化や身体の変調に気づいたとき、若いと無理を押してしまうけれど、年齢を重ねて無理が効かなくなると、素直になる。そこに大きなヒントがあると感じます。コロナ禍では、オンラインでガイド付き瞑想プログラムを行っていたのですが、ある参加者の方から『昨日までインフルエンザで寝込んでいたのですが、身体が弱っているときのほうが、ガイダンスがストンと入ってきて我を殺すことができました』と言われて、なるほどと思いました。どんなに自分ですべてをコントロールしているつもりでも実際にはそうではないことは、歳をとったり、病気にかかったりすると自然に納得できるのです」 

「個人」から「自己」へ 

川上住職はウェルビーイングにおいても、自らをコントロール、マネジメントしようとする姿勢に警鐘を鳴らします。 

川上 「今、社会で広く言われているウェルビーイングは、かつての『健康』の概念を引きずり、身体的・精神的に健全で完璧な人間像を目標に掲げているように感じます。それが逆に、人を苦しめているのではないでしょうか。実体のない『完璧』に執着するより、日々変化していく自己を理解しようとすることこそが大切だと思います」  

社会がそのような傾向になる背景には、個人主義の限界があるのではないか、と川上住職は言います。 

川上 「最近は学校で『自分らしくなりなさい』と指導されるそうですが、まだ型も身についていない、学問の入り口しか見ていない子どもたちにそれを言うのは酷です。『個人』の概念はもちろん重要ですが、そこから『自己』へと考えの幅を広げてみてほしい。春光院で私たちがやっているのはそういうことです。見えるものがまったく変わってきますよ」 

川上住職は最後に、「じねん(自然)」という禅の思想を紹介しました。いわゆる自然の元になった言葉ですが、自然が対人間であるのに対し、じねんは人間やその他の環境すべてが渾然一体となった、すべてを含む存在を指す概念でもあります。環境の一部としてゆらぎながら存在する自分を探究し続けること。その中にこそ、日本的なウェルビーイングは立ち現れてくるのかもしれません。 

写真:吉田亮人 

構成:高松夕佳 

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Well-being Matrix編集部
人生100年時代の"しあわせのヒント"を発信する編集部。