アートプログラム参加直後に心理的幸福度が向上。
12週間のプログラム前後で、健康状態を「はつらつ」と答える高齢者の割合が増えた。
美術館でのグループワークは社会的孤立を減らし、他者との結びつきを与えるのに役立つ。
健康であり続けたい。それは洋の東西を問わず、人類の多くが抱く普遍的な望みです。では「健康」とは何でしょうか。1946年に発表されたWHOの憲法草案ではこう定義されています。
「健康とは身体的にも、精神的にも、社会的にも良好な状態(ウェルビーイング)。単に病気でない状態や、虚弱でないことを指すのではない」
人口の高齢化が進む昨今、こうしたウェルビーイングなありかたへの希求はますます強まっていると言えるかもしれません。そうしたなかで注目されているのがアートセラピーです。「単に病気ではないウェルビーイングな状態」を目指そうとすれば、医者や薬以外に頼るのは当然のこと。アートセラピーはこれまでにも、精神疾患やがん、身体障害をもつ患者の幸福度や生活の質を高めるための非薬物的アプローチとしてさまざまな施設で活用されてきましたが、今回は、美術館で毎週催されるアートのワークショップを対象にした調査の結果を紹介します。参加型アートのグループワークはいかにして体験者の幸福度に影響するのでしょうか。
カナダ・ケベック州にあるモントリオール美術館は2015年10月から、周辺地域に住む高齢者を対象にした参加型アートプログラム「木曜日は美術館へ(Thursday at the Museum)」を毎週開催し、好評を博してきました。この取り組みに着目したマギル大学のオリヴィエ・ボーシェらの研究チームは、このプログラムで体験できるアート活動が、参加した高齢者たちのウェルビーイングや生活の質を改善する可能性があると仮定。その効果を測定すべく、実験を行なうことになりました。
被験者として150名が選出され、冬期と春期の2グループに分かれて「木曜日は美術館へ」に参加しました。期間はそれぞれ12週間。週に一度美術館に集まり、スケッチやミニコミ誌の制作といったアート活動を毎回2〜3時間行ないます。
研究チームは、初回(初日)、5回目(2カ月目)、9回目(3カ月目)、12回目(最終日)のワークショップ前後で、参加者たちのウェルビーイングを測定し、生活の質や通院頻度を調べていきました。
その結果明らかになったのは、アート活動の直後に心理的幸福度が向上するということです。参加者たちによる自己評価を分析した結果、参加の時期にかかわらず、ワークショップ前と比べてワークショップ後に心理的幸福度が高い数値を示したそうです(「有意に高くなった」Beauchetら、2020)。またその際の変動率は、5回目よりも、9回目と12回目で高いという結果も出ています。つまり、回を重ねた後半のセッションでは、ワークショップ後の心理的幸福度が向上する度合いが高まるということなのです。
効果が見られたのは、心理的幸福度だけではありません。「木曜日は美術館へ」のアート活動の参加者は、生活の質や健康状態(「高齢者の身体的・認知的・社会的な機能の低下によって引き起こされる脆弱性の段階」Beauchet、2020)も改善していたのです。
しかし、効果の現れる時期は項目によってまちまち。
先ほど紹介したように、心理的幸福度は各回のワークショップ終了後に向上しましたが、生活の質は、12回のセッションを重ねていくうちに徐々に向上していきました(Beauchetら、2020)。また健康状態は、参加前と全プログラムを終えた時点での比較において、「はつらつ」と答える参加者の割合が増え、「やや虚弱」と答える参加者の割合は減ったといいます。
では、なぜそのような効果が現れたのでしょうか。今回のモントリオール美術館で実施された実験ではウェルビーイングや生活の質がどのような要因によってもたらされているかまでは分析できていないとした上で、研究チームは「参加型のアート活動が認知症患者とその家族に知的刺激や社会的交流、共有体験のチャンスを与え」たという先行研究の質的調査を紹介しています(Beauchetら、2020)。
さらに「木曜日は美術館へ」のようなグループ型のアート活動は、「社会的孤立を減らし、他者との結びつきや社会的支援を与えるのに役立つ」ともしています(Beauchetら、2020)。参加者たちは材料を共有し、互いにわからないことを教え合うことで「利他的な体験」をするほか、グループ内で知恵や各自の人生経験をシェアすることにより「過去と現在の状況を統合」しやすくなり、その結果として、うつ傾向が低下し、希望を持ちやすくなるというのです。
現在、世界の広い地域において、「医療」は病院やクリニックで行われることが大半であり、「健康づくり」や「予防」にまつわる活動も学校や職場が主な現場となっています。しかし、人びとのライフスタイルが多様化している現在、そうした実践の場を地域コミュニティに増やし、かつバリエーションをもたせていくことは、より重要度を増していると言えます。
ボーシェらによるこの実験は、高齢者の健康予防のための公衆衛生政策において美術館が重要なパートナーになり得ることを示唆しました。美術館のような施設は、これまでとは異なる「ケアの現場」になりうるポテンシャルを有しているのです。