2023.08.14

美学者・伊藤亜紗との対話から知る、不完全さが教えてくれるウェルビーイングの極意

ウェルビーイングトーク しあわせの、これから。Vol.15
経済成長こそが「みんなの幸せ」につながると信じ、突き進んできた日本。従来の成長モデルが見直しを求められる中、幸せの基準への問い直しも生まれ始めています。真の共生社会を実現するための「みんなのウェルビーイング」とは、いったいどんなものなのでしょうか。

東京工業大学教授で、社会が利他性をとりもどすための視点を構想する利他プロジェクトを率いる伊藤亜紗氏に、博報堂の新しい大人文化研究所所長・安並まりや氏が聞きました。

伊藤亜紗(東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター長) 2010年に東京大学大学院人文社会系研究科を単位取得のうえ、退学。同年、同大学にて博士号取得(文学)。2016年4月より現職。近著は『体はゆく できるを科学する〈テクノロジー×身体〉』(文藝春秋)、『ぼけと利他』(ミシマ社)。WIRED Audi INNOVATION AWARD 2017、第13回(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞受賞。第42回サントリー学芸賞受賞。 

「健康」とは何か 

障害や病気がある人たちへの聞き取り調査を通して、かれらの世界の捉え方をつかもうとしてきた伊藤亜紗さん。「自分はウェルビーイングの専門家ではない」と前置きしつつ、障害や病気があるなど、ままならない身体を抱えた人たちの中にこそ、本来大切なウェルビーイングを見ることができるのではないか、と言います。 

伊藤さんがまず話題にしたのは、終戦直後の1946年に米国ニューヨークで作成された「世界保健機構(WHO)憲章」における「健康」の定義です。そこにはすでに、ウェルビーイング(well-being)という言葉が登場しています。 

“Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.”(健康とは、病気ではないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあること 日本WHO協会サイトより)  

伊藤 「単に病気がないことが健康ではないと言っているんですよね。病気がないだけじゃダメで、精神的にも社会的にも完璧じゃないといけない、と。すべてが失われた終戦時だからこそ高い理想を謳ったのだろうとは思いますが、この要求は高すぎます。生涯で一度も病気にかからない人なんていないし、完全な人などいません。それに、障害や病気のある人に話を聞けば聞くほど、完全であること=ウェルビーイングでは決してない、と強く感じるんです」 

実はこの定義は1998年のWHO執行理事会で見直され、"Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity." (肉体的、精神的、スピリチュアルに及び社会的に完全に良好でダイナミックな状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない)と改めることが議論されました。結果、政治的判断から改定には至りませんでしたが、伊藤さんはこの「スピリチュアル」と「ダイナミック」という2つの追加要素に大きな可能性を感じたそうです。  

伊藤 「スピリチュアルなウェルビーイング、つまり魂の健康は、すごく大事だと思います。私が話を聞かせてもらったある難病の方は、『私は病気とともに生きているけれど、「病気の人」にはなりたくない』とおっしゃっていました。筋肉が壊死していく病気のため、全身の皮膚が化膿しており、子どもの頃から入浴中以外は常に激痛があるという、とてつもない苦痛に耐えてきた方です。薬を飲んでも治らないし、ガーゼ交換も欠かせない。本当に大変です。でもお会いすると、全然そんなふうに見えない。笑顔がすごく美しいんです」 

肉体の健康≠魂の健康 

それはいったいなぜなのか。その人へのインタビューを通し、伊藤さんは肉体の健康と、魂の健康は別物であることに気づかされたと言います。 

伊藤 「肉体が大変な中で、その方は病気に人間性を奪われたくないと、自分の魂をずっと守っていたんです。その結果、魂は普通の人よりもずっと健康になっていた。インタビューをしていると、そのように病気や障害を経験した人が達した悟りのような境地に接することがよくあります。そういうとき、今私は人間を見ているんだ、かれらは人間の計り知れない可能性を見せてくれているんだ、と強く感じます」  

昨今言われるウェルビーイングの中心は、肉体やメンタル、社会的な健康ですが、伊藤さんが対話してきた人たちが教えてくれる「スピリチュアルな健康」には、それらを超える、ウェルビーイングの肝がありそうです。  

伊藤 「水俣病患者の方とお話ししていても同様のことを感じます。かれらは裁判によって損害賠償を求めようとした時期もありましたが、あるときからそれだけでは自分たちが救われないことに気づき、自らの人間性を見せるような闘い方へと変わっていかれた。かれらのような方たちが病気や苦しみを通して得た結晶のような何かは、目に見えないけれどすごく大事で、また今、失われつつあるものだとも思います」 

利他は人間社会の基礎としてあるもの 

続いて伊藤さんは、日本における「みんな」や「私たち」の価値観について、問いを投げかけました。 

伊藤 「日本のウェルビーイングって『私たち』が好きですよね。なぜだと思いますか?」 

安並 「海に囲まれた島国に長年暮らす中で、自分ひとりでは生きられないと知っているから、助け合いの精神が育まれてきたのでしょうか」 

伊藤 「そう、人と人とが助け合うというのは、しょうがないからやることですよね。利他も同じだと思うんです。生活に余裕のある人が寄付する、それが利他だとよく誤解されるのですが、そうではありません。人間社会はそもそも利他でなければ、助け合わなければ、成り立たない。利他的な人間関係の上に、さまざまな生産活動が乗っているだけなのです。生産活動の余剰として利他があるのではなく、利他のほうがベースにある」 

新型コロナウイルスの感染拡大時に利他が注目されたのも、社会を覆っていた生産活動が一気に止まったことで、基礎に存在していた助け合いの要素が見えてきただけなのだと言う伊藤さん。そう考えると、利他は新たに「目指すもの」ではなく、もともと仕方なくそこにあるもの、つまりウェルビーイングの根底を成すものということになるのかもしれません。 

魂の健康は、ウェルビーイングに直結する 

病気や障害に限らず、何かをハードルと身構えて諦めるか、チャレンジとして受け入れ、乗り越えるかで、日々の幸せは大きく左右されます。子育て中の安並さんは、子どもをめぐるリスク回避の風潮に頭を悩ませているのだとか。 

安並 「雑誌を読めば『子どもは叱ってはいけない』と書かれているし、公園や保育園の遊具も危険のない、易しいものばかり。子どもにチャレンジを許さないような、ハードルを下げる動きが加速していることに疑問を感じています」 

伊藤 「挑戦には失敗のリスクがつきものですが、今は、ルールがどんどん厳しくなり、失敗が許されなくなってきていますね。障害や病気があるとさらに顕著で、『失敗してはいけない人になる』と皆さんおっしゃっています。周囲が何かと手を貸してくれて、安全第一になってしまうのです。安全は大事ですが、挑戦の芽を摘みすぎると、成功体験をも奪ってしまいます」 

魂の健康のためには適度な挑戦をし続けることは重要ですが、挑戦には肉体の健康を害するリスクもあります。しかし、リスクを排除すれば個人のウェルビーイングが高まるかといえば、それは違うと伊藤さんは言います。 

伊藤 「一般に病気と思われているものも、本人にとっては生きていくために必要な場合があります。摂食障害の人は、過食と嘔吐を繰り返してしまって肉体的にはつらい。でもそれをしないとバランスがとれず生きていけない。タバコは肉体の健康には悪いけれど、タバコを吸わないと魂が不健康になってしまう人もいるのです」 

健康と病気は二元論的に語られがちですが、病気や不健康、毒がもたらすウェルビーイングも存在します。「(肉体の)健康に悪いから」と切り捨てることで、社会全体のウェルビーイングをかえって下げてしまっている可能性さえあるというのです。 

本当の「共生社会」とは 

肉体の健康と魂の健康のバランスは、どうとればいいのか、と問う安並さん。それに対して、伊藤さんは個人がいくらバランスをとろうとしても、社会がそれを許さなくなってきていると指摘しました。 

伊藤 「『社内禁煙の推進』がウェルビーイングの施策として行われていたり、非常にステレオタイプ化された『自分らしさ』を想定し、『100歳まで自分らしく生きる』ことが目指されていたりする。元気にスポーツができる、は『自分らしく』に入っているけれど、パチンコに行く、は入っていないでしょう。想定外の自分らしさを許さない社会の強制力が非常に強いと感じます」 

安並 「確かに、社会全体が心地よい方に向かう一方で、個々人の自由の範囲はどんどん狭まっていますね。シニアマーケティングの調査で高齢者にお話を伺っても、皆さん二言目には『迷惑をかけたくない』とおっしゃいます」 

そうした社会の圧力の強さは、バリアフリーに関連して最近よく使われる「共生社会」のイメージにも表れています。 

伊藤 「『共生社会』という言葉で画像検索してみてください。さまざまな年齢や性別、人種の人が手をつないで輪になっているイラストがやたらと出てきます。設定された『私たち』以外は輪に入れませんよ、『私たち』に迷惑をかけない範囲で共生しましょうと言っているようにしか私には見えない。これは全体主義の図であり排除の図、本来の多様性とはかけ離れたものです」  

それよりも、と伊藤さんが本来の共生社会のイメージとしてふさわしいと挙げたのが、神戸・阪急神戸三宮駅東口にある「さんきたアモーレ広場」(通称:パイ山)でした。いわゆる駅前広場なのですが、その特徴は円盤のようなベンチがいくつも配置されていること。ベンチは緩やかなスロープ状で、位置によって高さが異なります。 

伊藤 「改札を出て広場が目に入った瞬間、ここは海水浴場か、と思うような景色が広がっていて驚きました。ホームレスの人、学生、ビジネスマンなど、普通の生活圏では交わらないような方たちが、寝転がっている。ベンチには体育座りしている人もいれば、またがっている人もいて。どこにいても姿勢がバラバラになるように設計されているから、ここではこう振る舞うべき、という前提がまったく見えない。そのように、それぞれの人がバラバラでありながら、なんとなくお互いを認識していて、何かあれば助け合うような社会こそが、『共生社会』なのではないでしょうか」 

安並 「みんなで輪になって一丸となり、同じことをしようというのだと、結局、禁止事項が増えていくだけになってしまいますからね」 

マジョリティを解体する

伊藤 「マイノリティの包括(インクルージョン)が叫ばれる昨今ですが、それは逆だと思います。まずはマジョリティを解体するべきなのです。マジョリティが解体されれば、マイノリティは自然と入っていける」  

三宮の広場でマイノリティであるホームレスの人が目立つことなく自然と憩えていたのも、そこに置かれたベンチが人々の多様な座り方を許したことで、マジョリティが解体されたからなのです。  

伊藤 「視覚障害者と一緒に美術鑑賞をしてみるとよくわかります。見えない人がそこにいると、見える人は目の前の作品がどんなものかを言葉にして伝えなくてはいけなくなる。その作業自体、普段やらないことなので難しい。もたもたする見える人に接した見えない人は『見える人ってそんなにすごいわけじゃないんだな。見えるとは絶対的なものではないんだな』と察する。見える=正解を知っていると思わされているけれど、そうでもない。こうして目の見える人というマジョリティが解体され、視覚障害の方も作品鑑賞の対話に入れるようになっていくのです」 

自分の中の多様性に気づくこと 

ではそのようにマジョリティが解体されていくためには、自分とは遠い立場の人と交わり、気づきを得ていくしか、ないのでしょうか。 

伊藤 「必要なのは、自分の中の多様性に気づくことだと思います。そのためには人に接することが大切ですが、その人はマジョリティでもマイノリティでもいい。いろんなコミュニティをサーフィンし、攻略していくかのような都会的発想ではなく、誰かに接して『ああ、自分にもそういう面があったな』と気づく経験を増やしていけば、どんな人とも全面的に同じではない、違うことにも気づいていきます」 

安並 「最近行っている更年期の調査の協力者たちも、最初は『更年期って煩わしいよね』とサラッと言うのですが、実際にどんな変化が身体の中で起きているかを説明していくと、かれらの認識がどんどん変化していくんです。それまで蔑ろにしていたことも、同じ立場の人と考えるうちに肯定できるようになるのに驚きました」 

伊藤 「その方たちはまさに、魂の健康を発見したのでしょうね。病気になったとか障害を負ったというのは、一見、ウェルビーイングが下がることのように思いますが、人と話したり本を読む中で認識が変わると、病気がもたらしてくれる『健康さ』や、『病気を』通さなければ見えない世界があることに気づいていくのです」 

健康も病気も、あらかじめ決まっているものでもなければ、目指すべきゴールでもない。何が来ても展開していける魂の力を、人間は本来持っているし、それを発揮できることこそがスピリチュアルなウェルビーイングなのではないか——伊藤さんはそう結びました。  

一見ウェルビーイングから離れること、そのときの私たち一人ひとりの「不完全さ」の中にも、最も重要なウェルビーイングが見つかるのかもしれません。 

写真:平岩享 

構成:高松夕佳 

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Well-being Matrix編集部
人生100年時代の"しあわせのヒント"を発信する編集部。