2024.02.27

学者、エンジニア、そして起業家でもあるドミニク・チェンと探る、わたしたちのウェルビーイング(前編)

「ウェルビーイング」をめぐり、さまざまなキーパーソンと東京・下北沢の本屋B&Bで考えるトークシリーズ。
2023年5月26日(金)の夜に行われた第4回のゲストは、テクノロジー、人間と自然存在の関係性を研究する早稲田大学文学学術院教授のドミニク・チェン氏。監修・編著を手がけた『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために――その思想、実践、技術』(BNN新社)の続編として、現在「わたしたちのウェルビーイング」をデザインするための書籍を準備中だというチェン氏に、ウェルビーイングのデザインをテーマに、Hakuhodo DY Matrixの田中卓氏と平間圭太郎氏が話を聞いた。

ドミニク・チェン(学際情報学博士) NTT InterCommunication Center研究員, 株式会社ディヴィデュアル共同創業者を経て、早稲田大学文学学術院教授。Ferment Media Researchを主宰し、テクノロジー、人間と自然存在の関係性を研究している。著書に『未来をつくる言葉――わかりあえなさをつなぐために』(新潮社)、共著に『謎床――思考が発酵する編集術』(晶文社)など多数。監訳書に『ウェルビーイングの設計論――人がよりよく生きるための情報技術』(BNN新社)など

田中卓(Hakuhodo DY Matrix 100年生活者研究所 副所長) 幅広い業種のマーケティング&ブランディング業務に従事。博報堂九州支社に赴任中の2016年に「Qラボ」を立ち上げ、九州を活性化するアクションを実施。2021年から、Hakuhodo DY MATRIXに在籍。100年生活の「Well-being≒満たされた暮らし」のモデルをつくることを目指し、業務に取り組む。共著に『マーケティングリサーチ』(すばる舎)がある。

平間圭太郎((Hakuhodo DY Matrix マーケティング プラニング ディレクター) ウェルビーイングとマーケティングのチカラを融合して、世の中をちょっと良くするWell-being Marketer。

ウェルビーイングを「デザインする」とは

田中 なぜ今、ウェルビーイングをデザインしようと思ったのですか?ウェルビーイングをデザインするとはどういうことなのでしょうか。

チェン 「ウェルビーイング」とよく比較される言葉に「幸福」があります。幸福は非常に主観的で数値化が難しく、それをもたらす要因もわかりにくい価値です。20世紀、社会学や心理学の分野で世界の人々の幸福度が調査され始めると、要因の特定しにくさが問題となりました。そこで20世紀後半以降、幸せの構成要素を明らかにしようとする研究が生まれてきた。これがウェルビーイング研究です。

ここ20年ほどで、心理学や行動経済学はもちろん、ものづくりにかかわる工学のプロたちも、どうすれば人々の幸福や心の充足に貢献できる製品が作れるかを問うようになり、ウェルビーイング研究は非常に盛り上がっています。厄介なのは、要素分解するほどに「一概に言えない」ことが増えていくことです。国、地域によって価値観も文化も違う。アメリカで通用するウェルビーイングが日本の我々にはしっくりこない、ということが相互にある。ウェルビーイングに注目することで、人間の生きている世界の複雑さに人類全体が気づこうとしているのだと思います。

平間 ウェルビーイングは人によって違う、多様であるというのは、このイベントのこれまでのゲストの方や、仕事で取材する方たちも指摘されていて、ウェルビーイングの根本的性質なのだと改めて感じます。

チェン ウェルビーイングの視点は、ものづくりに携わる企業人たちにも問いを投げかけます。開発中の製品がグローバルに展開できるものなのかどうかを立ち止まって考えるだけでなく、すでに世の中でグローバルに使われているサービスや製品は、ウェルビーイングの観点から良いものと言えるのか、という疑問も湧いてくる。たとえばスマートフォンは世界中で使われていますが、その中毒性についてはどう考えるのか。収益的な成功の背景に、ウェルビーイングを著しく損なわれたユーザーがいる。そこをきちんと検証することが問われるのです。ウェルビーイングをデザインするというのは、あらゆる企業活動において、自分たちが手掛けるものが受け取る人の心をどれだけ満たせるのかを、仕事の一環として考えることなのです。

パーソナライズは分断を生み出す?

田中 ウェルビーイングの視点でユーザーの体験を想像し、その体験自体を具体的にウェルビーイングに近づけていくことが、ウェルビーイングをデザインするということなのですね。

チェン そうですね。まあ、言うは易しなんですけど(笑)。こうやれば間違いなしという方法論が確立されているわけではなく、現場によって向き合い方は違います。だからこそ、さまざまな業種の人たちと話しながら集合知を蓄積することが大切ですし、企業には外から答えを求めるのではなく、自ら答えを発見し、作り出していこうとする姿勢が求められます。

田中 それぞれのウェルビーイングが違うことを前提に、パーソナライズされたウェルビーイングをどう実現していくのかを考える。これはなかなか大変そうです。

チェン 「パーソナライズ」は重要なキーワードです。情報技術はパーソナライゼーションや個人への最適化が得意で、それによって経済的価値も生まれていますが、同時にこのモデルは今、大きな批判にも晒されています。

パーソナライゼーションの最大の問題は、分断やわかり合えなさを生み出すことです。ニュースアプリやSNS、検索エンジンを使うとき、見える景色は、人によってまったく違います。その人の趣味嗜好によって違う検索結果やタイムラインが出てきている。この弊害は、たとえば政治思想分野で非常に大きくなります。最近、選挙で自分が支持した人が負けると「なぜだろう? みんな一緒の思いだったはずなのに」と感じる人が増えていますよね。僕らは日常的にアルゴリズムの影響を大きく受けている。その結果、社会への怒り、わかり合えなさへの怒りが増幅されている。今便利になるのだからいいだろう、と短期的利益の追求が積もり積もった結果、「こんなはずじゃなかった」となっているわけです。アメリカではここ数年、アテンションエコノミーへの警鐘を鳴らす議論も盛り上がってきています。

平間 こんなはずじゃなかった、と自ら気づければいいのですが、気づかないうちに分断されていたというところに、パーソナライゼーションの恐ろしさを感じます。

チェン パーソナライゼーションという考え方自体が悪なのではありません。重要なのは、透明性です。僕たちはSNSなどのサービスを、背景にどんな論理、アルゴリズムが働いているのかを知らずに使っていますよね。

アーティストでジャーナリストのジェームズ・ブライドルによる『ニュー・ダーク・エイジ――テクノロジーと未来についての10の考察』(NTT出版)では、識字率が人口のわずか数パーセントだった中世ヨーロッパと現代はリテラシーの面で非常に似ていると指摘されています。AIの挙動を誰も知らない現代のAIリテラシーは、中世ヨーロッパの識字率並み、だから僕らは新しい暗黒時代を生きているのだ、というのです。

ChatGPTを手にした僕らは、あらゆる知識を獲得したように錯覚していますが、肝心のChatGPTがどんなトレーニングを経てその答えを自分に返しているのかは知らないまま。大企業のエンジニアでさえ、自らが作ったアルゴリズムの吐き出す情報を説明できない。こうした状況が、我々や社会にどんな影響を長期的に与えるのか。社会全体で議論していく必要があると思います。

「わたしたち」をウェルビーイングの起点に

田中 僕らが親しんでいる世界とは違う世界に親しんでいる人がいることはわかりました。でも「わたしのウェルビーイング」だけでなく「わたしたちのウェルビーイング」を作っていくことがなぜ大事なのでしょうか。

チェン 僕は2016年より国の研究助成金をいただき、「日本的なウェルビーイングとは何か」を探求するプロジェクトを行っていました。西洋の文脈から生まれたウェルビーイング研究は、個人主義に立脚しています。「わたし」がどう満ち足りるのかに関する調査、議論、研究はたくさんあるのですが、「わたしたち」が関係し合うことに関する研究は少なかった。アジアに特有の、集団的なアイデンティティの持ち方は対象外だったのです。

たとえば我が子が悲しい気持ちを抱えているとき、アメリカでは両親が子どもの感情に引きずられることはさほどありません。一方、日本では子どもの感情が家族間で集合的に共有され、共有によって本人の感情が整理される。「わたし」1人だけでは感情を存分に受け止められない文化もあるのです。こうして日本的なウェルビーイングには「わたしたち」が重要なのではないか、「わたしたち」を起点に色々と考えてみようと思うようになりました。

さらに調べていくと、この感覚は日本人以外にも理解可能であることに気づきました。ある程度関係性が構築された人同士の場合、「そこのコップとってください」と頼むと、頼んだ人の身体が、コップをとってくれる相手の身体まで拡張される。同じように、自分の文化やアイデンティティも関係性によって広がる可能性はある。外国の人が日本の中に知らなかった価値を発見し、それを自らの文化の中で育てることもあれば、その逆もあるでしょう。お互いにわかり合えない部分を隠すのでも否定するのでもなく、受け止め、その上で何が一緒にできるかを考える。「わたしたち」というのは、相入れない部分には目をつむって仲良くしましょうというのではなく、お互いに影響しあい、変化しましょうということなのです。

わたしたちのウェルビーイングへと導く「ゆ理論」

田中 監修された本の中にも、意見を同じくしていく「同意」ではなく、違いを認めた上ですり合わせる「合意」のプロセスが大事だと書かれていましたね。実際に「わたしたちのウェルビーイング」をどうデザインしていくのでしょうか。

チェン 現代における「わたしたちのウェルビーイング」には、3つの重要なポイントがあります。すべてひらがな3文字、「ゆ」から始まる大和言葉なので、「ゆ理論」と呼んでいます。

1つ目は「ゆらぎ」、変化する可能性です。自分が変化できるかどうか、その変化のタイミングが適切かどうか、固有性を反映した変化なのか。SNSのアルゴリズムはあなたの固有性を拾いますが、あなたにとって望ましいタイミングかどうかは一切考慮しません。その人にとって望ましい変化は何か、そのタイミングがいつかを考えるのが「ゆらぎ」です。

2つ目は「ゆだね」、つまり自律性を前提に、どこまで外部にゆだねるのかのバランスを考えることです。ウェルビーイングの研究で自律性の重要性はずっと指摘されていますが、全部を自分で律するのはしんどいですよね。そこでスマホのような製品やサービスにどこまで自分の労力をゆだねられるのかを考えます。但し価値判断までゆだねてしまうと、おかしな状況に陥ってしまうので注意が必要です。

3つ目は「ゆとり」、つまり内在性、プロセスに価値が認められるかどうかです。たとえばこのイベントに対するお客さんの満足度を10点満点でアンケート調査しましょう、というのは結果主義です。ゆとりを考えるには、登壇者3人がこのトークを楽しめていたかどうか、そのプロセスも大事です。

これら3つの「ゆ」は、人間関係にも当てはめることができます。ヒエラルキーのある組織では、上司が部下を評価したりコントロールしたりして、良い成果に導こうとします。部下はどの程度まで上司に「ゆだね」るのか。上司は部下にとって最適なタイミングで変化の機会を与え(ゆらぎ)、仕事のプロセスを楽しめるよう導く(ゆとり)。「ゆ理論」を実践すれば、上司も部下も相手をケアする発想になり、仕事を通してお互いのウェルビーイングをデザインすることにもなっていくわけです。

田中 「わたしのウェルビーイング」はそれぞれ違うので、複数の人が集まるとぶつかることがある。お互いが納得できる「わたしたちのウェルビーイング」を作るためには、お互いが変化し合い、依存し合い、その過程自体を楽しむことが必要なのですね。

チェン そうですね。一方で、実は「わたしたちのウェルビーイング」もいきすぎるとディストピアになる場合があります。抜け駆けを許さない、みんなが一緒であるべきという全体主義的な状況です。集団や組織においてはまず、1人ひとりが違うことを認識した上で、どうすれば「わたしたち」であれるのかを考えることが重要です。何も24時間「わたしたち」でいる必要はありません。1日のうち1時間でも30分でも、「わたしたち」だとお互いが感じ合えればそれでいいかもしれない。

田中 「わたしたち」の範囲自体も、その時々でゆらぎますよね。

チェン 常にダイナミックに揺らいでいます。そしてそこにはコミュニケーション方法も影響してくる。

コロナ禍では、「社内コミュニケーションがうまくいかない」というご相談をよく受けました。社員が出社せずビデオ会議ばかりで、「わたしたち」になれない、というのです。ビデオ会議は合理的な1対1の「対話」には便利ですが、雑談のような無目的なプロセスを楽しむ場や、「共話」には向いていません。今、田中さんと平間さんは僕の話を、相槌を打ちながら聞いてくれていますよね。その相槌の声は僕の喋る声と微妙に重なっている。100ミリ秒ほどの微小な時間幅でのフィードバックが常に僕に返ってくることによって、「話を聞いてくれている」とか「この話には興味があるんだな」と思えて、僕の語りが駆動される。これが共話です。つまりそこで1つの「わたしたち」が立ち上がっているわけです。おふたりがずっと仏頂面で腕を組んで聞いていたら、僕はおそらく怖くて喋れませんよ(笑)。

もちろん共話も万能ではありません。頷きすぎるとうざくなるし、「わたしたち」性が強くなりすぎている場では敢えて「自分はこう思う」と「わたし」を挿入することも必要になってくる。より良い関係性を構築するためには、常にすり合わせ、調整することが大切なのです。日常生活はまさに「わたしたちのウェルビーイング」の実験場です。あらゆることをそうした視点で観察してみると面白いと思います。

写真:平岩享

構成:高松夕佳

プロフィール
Well-being Matrix
Well-being Matrix編集部
人生100年時代の"しあわせのヒント"を発信する編集部。