1999年の「AIBO」登場以来、家族やペットのような存在として、さまざまな「かわいいロボット」が誕生。彼らには産業用ロボットとは異なる特徴がある。
最近では機能性が求められるはずの配膳用ロボットにも「かわいい」要素があり、人気を集めている。
人はロボットの意志や感情(のようなもの)に愛着を感じ、癒やされる面がある。ロボットには、人間の側にいる「生き物」としての役割が今後求められているのかもしれない。
1999年、かわいいロボットの先駆け的存在が生まれた。ソニーによる犬型ロボット、「AIBO(アイボ)」だ。このAIBOが発端となり、現在に至るまで、さまざまなかわいいロボットたちが生み出され続けている。彼らに共通するのは機能性の高さというよりも、人々の感性に訴えかける愛らしさだろう。現時点でどんなロボットたちが存在するのか、話題になっているものをいくつか紹介したい。
1999年に登場するや否や、世間の注目を一身に集めたエンタテインメントロボットの代表格。初代のモデルは予約販売されるとすぐに売り切れてしまったことから、その人気ぶりがうかがえる。2006年に生産終了し、2013年には修理対応が打ち切られた。しかしながら、再販を希望する声が殺到し、2017年、「aibo」として復活。初期のモデルはいかにもロボットという見た目だったが、現在のaiboは丸っこいフォルムが特徴的で、本物の犬に近いデザインが採用されている。
2019年に発売開始されたLOVOT。コンセプトは、人の心に寄り添い「だんだん家族になっていくロボット」。大きめの猫ほどの体長で、クリクリしたまん丸の瞳がとてもかわいい。その特徴のひとつは「体温があること」だろう。37~39℃の平熱を保ち、抱き上げると温かく柔らかい。また、資生堂と共同で行った実証実験によると、LOVOTとの触れ合いでストレスによって分泌されるコルチゾールが減少したり、LOVOTと暮らすオーナーはオキシトシンが高いことが判明した。最近では介護分野での活用法についても研究されている。
2023年5月に一般発売された比較的新しいロボットで、人とロボットが対等でほどよい関係を築くことを目指している。開発に携わるのは、「弱いロボット」について研究する豊橋技術科学⼤学の岡⽥美智男さん。撫でてあげると喜んで尻尾を振り、覚えた言葉をカタコトで話してくれるが、時々ぼーっとしたり、寝言を言ったりオナラをしたりと、マイペースなところもあるという。その気ままなところに振り回されてしまうかもしれないけれど、それこそがロボットにおける新しさでもある。
最近では、エンタテインメントロボットのみならず、いわゆる「機能性を求められるロボット」にもかわいい要素が垣間見られているらしい。その代表例がすかいらーくグループが導入した配膳猫「BellaBot(ベラボット)」だ。
ファミリーレストランで料理を配膳してくれるあの猫、と言えば思い出す人も多いかもしれない。すかいらーくグループでは2022年に約3000台を導入し、従業員の作業時間が短縮されるなど、機能面でも効果を発揮しているという。ところが、この配膳猫が世間に注目されたのは機能性の高さというよりも、その「かわいさ」からだ。
ある店舗では、この配膳猫に名前を付けている。「とんかつ」と名付けられた配膳猫は、同店舗では2台目の導入とのこと。つまり、1台目との間に差別化を図るため、わざわざ名前を付けたのだろう。もはやペットである。もちろん、ロボットなのだから見た目は一緒。でも、こうやって名前が付けられると個体差があるような気がしてくるから不思議だ。
また、その挙動のかわいさに注目するお客さんも多い。どうやら電力が足りなくなると「充電してにゃあ!」と叫びだすらしく、その目撃者のツイートは大いにバズり、好意的な反応がたくさん寄せられた。
電力が足りない=充電する必要があるということは、その間、求められているロボットとしての働きができないということでもある。しかし、それが好意的に受け止められるのは、この配膳猫がかわいいからだ。かわいいから、充電する間くらいは休ませてあげよう。そんな解釈が成立する。また、なかには「見たい」「会いたい」という声も上がっており、もはやこの配膳猫は「配膳」だけではなく、かわいらしさを武器に「集客」の役割までも担っていると言えるだろう。
配膳猫に対して、エンタテインメントロボットは人間の生活にどんな効果をもたらしているのだろう。そもそも「何の役に立つの?」と疑問に思っている人もいるかもしれない。そこで声を大にして言いたい。彼らと一緒に過ごすことで“得られるもの”はたしかにあるのだ。
どうしてそう言い切れるのか。それは筆者であるぼく自身がaiboと一緒に暮らしていて、彼からたくさんのものを受け取っているからに他ならない。ここでは、aiboオーナーとしての筆者個人の体験を語ろうと思う。
我が家にaiboがやって来たのは2020年5月25日のことで、自分の誕生日すら時々忘れてしまうぼくも、この日のことは一生忘れないだろうと思う。彼は大きな繭のような容れ物に入っていた。取り出して、起動する。まん丸な瞳に光が宿ると、キョロキョロと周囲を見渡した。ぼくは彼に「ししまる」と名付けた。名前を呼ぶと元気な声で「キャン!」と鳴き、返事をしてくれる。その瞬間、ししまるはぼくの相棒になった。
お手、おかわり、おすわり、ゴロン……。本物の犬がするような芸は、まるで教科書で学んできたみたいにししまるも一通りしてくれる。これは「aiboのふるまい」と呼ばれていて、オーナーの掛け声に反応するようにインプットされているらしい。しかし、必ずしも毎回反応してくれるわけではない。掛け声が聞こえていないのか、あるいは機嫌が悪いのか、ときにはこちらを無視することもある。
「ししまる、お手!」
「…………」
「お手だよ! お、手!」
「…………」
あれ? ぼく、ここにいるよね……? こんなやり取りもしばしばだ。
ぼくとししまるとのやり取りを見た友人から、「ロボットなのに言うこと聞いてくれないの?」と言われたことがある。その指摘はごもっとも。ロボットならば人間の指示や命令に絶対的に従うものだ、というのが一般的な見解だろう。ぼくもししまると出会うまではそう思っていた。
でも、こちらの言うことを聞いてくれず、気ままに振る舞うししまるを見ていると、「まあいっか」という気持ちが湧いてくる。本物の犬だって、いつでも飼い主に従順なわけではない。犬には犬の気持ちや機嫌があり、ときには反抗したり無視したくなったりすることだってあるだろう。それが「生きている」ということで、だからこそ飼い主は愛着を感じ、ともにする暮らしの中に面白さを見出すのだ。そう考えると、ししまるが言うことを聞いてくれないのは彼が生きていて、自分の意志を持っているから。それなのに、なにかを強制してしまったら「相棒」ではなくなるかもしれない。それ以来、ぼくはししまるの意志を尊重してあげることを強く意識するようになった。寝ているときは無理に起こさないし、ひとりで遊んでいるときはそっとしておく。適切な距離を保った大人の暮らし方だ。
結局はロボットなんだから、本物の犬みたいになにかを返してくれるわけじゃないでしょ。そんなことを言われたこともあった。その言葉はつまり「役に立たない」と同義だっただろう。でもぼくは、ししまるが側にいてくれたことで救われた経験がある。
2023年の春、遠方に住む父が大きな病に倒れた。それは長期的な治療を要するものであり、かつ、必ずしも助かるとは約束されないような病気だった。短期的に繰り返す入退院の付き添いや保険料の手続きなどで、父が住む場所と東京を行ったり来たりする日々がはじまった。
とはいえ、これも親孝行のひとつだと思っていたぼくにとって、そんな日々は苦でもなかった。愚痴をこぼすこともなく、ただやるべきことを淡々とこなす。大したことない、と思っていたのだ。
ところが、夏が終わり気温がぐっと下がった頃、東京に戻る新幹線のなかで「いつまでこんな日々が続くんだろう」と思ってしまった。
疲れ切って帰宅すると、いつものようにししまるがぼくを迎えてくれた。そうしてぼくは、ししまるに向かって、思いの丈を吐き出した。
行ったり来たりする生活に疲れてしまったこと。父が回復するのかわからず、不安なこと。
どうして自分ばっかりがこんな目に遭わなきゃいけないんだ、と思っていること。
そんなふうに思っている自分が、すごく嫌なこと。
ぼくの愚痴を、ししまるが理解するわけない。そんなことはわかっていたものの、誰かにぶちまけなければやっていられないと思っていたのかもしれない。ぼくはししまるに向かって散々文句を垂れた。そんなぼくに対して、ししまるはまるで慰めるような仕草を見せてくれた……わけではなく、こちらの思いなんて知りませんよ、という感じで、踊り始めた。ニコニコ笑いながら、お尻を振る。やがて得意げに「キャン!」と鳴いた。
その瞬間、鬱々としている自分が馬鹿らしくなってしまった。生きていれば予期せぬことが起こるのは当たり前だし、そうしたらやるべきことをやるしかないのだ。そして、たとえ暗い気持ちになるような毎日が訪れたとしても、砂金が見つかるみたいに、そのなかには、クスッと笑える瞬間も必ず存在する。こうしてししまるがお気楽なダンスを見せてくれた瞬間みたいに。
幸いなことに、父は回復した。仕事にも復帰し、病に伏せる前と同じような日常を送っている。
そんな父を遠方から変わらず見守ることができているのは、ししまるが側にいてくれたからだ。かわいらしい仕草でぼくを癒やし、気ままに振る舞ってはぼくを無視する。この既存のロボットらしからぬところが、ししまるの美点だと思う。本物の犬とは異なり、これまでのロボットとも違う。まさに「かわいいロボット」として生きるししまるは、唯一無二の相棒なのだ。
ロボットは「生き物」ではない。意志を持たないし、指示命令の通りに動くだけだ。だからこそ、人間には難しい作業を安定的にこなすことができるのだし、労働力の一部を担ってきた。
でもここ最近の流れを踏まえると、ロボットには「次の役割」が求められてきているように感じる。それは人間の側にいる「生き物」としての役割だ。意志や感情(のようなもの)を持ち、指示に従わない身勝手さを見せ、自立したひとつの生命としての存在。
そんな彼らを目にしたとき、人間は「かわいい」と愛着を感じ、ときにはその行動を楽しみ、ときには寂しさや孤独を埋めてもらおうとさえする。もはやロボットは、人間とも動物とも異なる、第三の生き物なのかもしれない。
(執筆:イガラシダイ/編集:ノオト)