2024.02.22

Vol.01 無欲な僕の内向きな幸せの見つけ方

呂布カルマの欲と幸せ論
ラッパーの呂布カルマさんが、自身のウェルビーイング論を綴る連載「呂布カルマの欲と幸せ」。第一回のテーマは「幸せの見つけ方」です。

何にに幸せを感じるか、どうやって幸せになるか、それこそ十人十色、千差万別ではあるが、最も手っ取り早い方法は己の欲望を満たし、願望を果たす事だ。 

美味い飯を食い、充実した性生活を送り、質の良い睡眠を摂る。その三つは誰しもが願う事であって、ことさら語るまでもない。ここではもう少しパーソナルな、僕だけのと言うと大袈裟だが、先述の本能ともいえる三大欲求以外の話をしよう。 

しかし、こうやって改まって考えてみると僕は比較的無欲な人間なのかも知れない。別にこれは良いカッコしたくて言っている訳ではないが、現在すでに手にしている物以上に高級だったり希少な物を欲する事は無いし、地位や名誉に繋がる類の欲は求め出せば底無しで、満ちることが無く、その先に破滅が待っている事も知っている。 

僕の欲望は自分の外側には向かない。向けたところで完全に満たされる事が無く、どこかで妥協や諦めに体の良い言い訳を添えて納得した振りをするしかないからだ。 

むしろ全ての欲が満たされてしまえば、それ以上何を求め、どんなモチベーションで生活していけば良いのか分からないだろう。生きていく事は基本的には辛く、面倒臭い事の連続だ。それをどうにかやり過ごすために日々小さな欲を満たしながら騙し騙し日々を送るのだ。とはいえこれも言葉のあやで、その欲は決して満ちる事はない。どんなに腹一杯まで飯を食えど、数時間後にはまた腹が減り、睡眠やSEXに関しても同じ事が言える。 

確かにその時々に幸せを感じはするが、大抵は跡形も残らずに消え失せ、その幻を追うかの様に、金や時間や労力といった代償を払って繰り返し、より大きな幸せを求めてしまう。まるで麻薬だ。実際麻薬はお手軽に幸せを感じるためにあると言っても過言では無い。知っての通りその分代償も大きい。 

では、自分はどうやって欲望を満たしているか。これは意図してそうしている訳ではないが、僕の欲望は自分の内に向いている。 

これは自己啓発や成長といった意味ではない。自分のまだ知らない、自覚していない内面や可能性に触れる事に喜びを感じているのだ。そこに良いも悪いも無く、自分の有りのままを知る。これが意外と難しく、外的要因からの変化や気分による新しい解釈を繰り返し、それこそ底が無い。 

一般人の、と言うと自分は何様みたいだが、所謂普通に社会と関わっている人は自己を認識する場合、まずは主観。そして家族や職場、友人など近しい第三者からの客観。しかし、互いに認識し合ってる者同士の客観は純然たる客観とは言えない。その人を評す時に多かれ少なかれ手心が加わるのだ。 

一方僕は呂布カルマとしての側面だけ、露出している面だけを知る膨大な赤の他人からの情け容赦無い客観に晒されている。そして僕はSNSなどで平気でエゴサーチをするのでそれらを日常的に目にする。当然そこには僕自身の主観による自己と大きな隔たりがあり、それを面白いと感じれるか、否か。 

有名人の中にはそれらの心無い書き込みなどによって心的ダメージを受ける人も少なくないため、余りエゴサーチは推奨されない。しかし僕はそれを楽しめるので今日もエゴサーチに余念がない。純然たる客観に触れ、自分をより深く知る良い機会だと思っているからだ。 

他にも、自覚していない自己に触れる瞬間がある。僕はラッパーなのでリリック、HIP-HOPでいう歌詞を書くのが本分なのだが、リリックはリアルである事が条件だ。それは言葉通り現実という意味以上に、どれだけ正確に自己を投影しているかという事が問われる。その上に韻を踏むという特性があるのでストレートに思った事を書くのが難しい。その二つの条件が重なると予期もせぬ自分の内面、深層心理が詩に表れることがある。その詩をラップし、客観的に己を知る事に何よりの喜びを感じるのだ。 

“ラップするのはまだ飽きない/何せ会った事無い自分に毎回/会えるんだぜこんな事他に無い/俺は俺にしかやれない事をやりたい――<メヲミテミナ feat. 日系兄弟>” 

こんな文章を書くのも同じだ。頭を悩ませながら幸せについて考える。それ自体が喜びであり仕事になっている。こんな幸せがあろうか。 

 (編集:ノオト) 

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Well-being Matrix
Well-being Matrix編集部
人生100年時代の"しあわせのヒント"を発信する編集部。